例文・使い方一覧でみる「建保」の意味


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...建保二年には正月と九月と二度もお参り致しました程で...   建保二年には正月と九月と二度もお参り致しました程での読み方
太宰治 「右大臣実朝」

...このとしは十二月六日に建保と改元になりましたが...   このとしは十二月六日に建保と改元になりましたがの読み方
太宰治 「右大臣実朝」

...その建保元年あたりには...   その建保元年あたりにはの読み方
太宰治 「右大臣実朝」

...建保三年乙亥...   建保三年乙亥の読み方
太宰治 「右大臣実朝」

...建保三年六月に痢病でおなくなりなさるまで...   建保三年六月に痢病でおなくなりなさるまでの読み方
太宰治 「右大臣実朝」

...この建保二年から三年にかけて...   この建保二年から三年にかけての読み方
太宰治 「右大臣実朝」

...建保二年の五月から六月にかけての大旱魃の折には...   建保二年の五月から六月にかけての大旱魃の折にはの読み方
太宰治 「右大臣実朝」

...同じく建保四年の六月二十日には...   同じく建保四年の六月二十日にはの読み方
太宰治 「右大臣実朝」

...この和卿といふお方は、その当時こそひどく落ちぶれて居られたやうでございましたが、以前はなかなか有名な唐人だつたさうで、人の話に依りますと、その建保四年から数へて約二十年むかし、建久六年三月、故右大将家再度の御上洛の折、東大寺の大仏殿に御参りになつて、たまたま宋朝の来客、陳和卿の噂をお聞きになり、その陳和卿が総指揮をして鋳造したといふ盧舎那仏の修飾のさまを拝するに、まことに噂にたがはぬ天晴れの名工、ただの人間ではない、と御感なされて、重源上人をお使として、和卿をお招きになりましたところが、和卿は失礼にも、将軍多く人命を断ち、罪業深重なり、謁に及ばざる由、御返答申し上げ、故右大将家はお使の上人からその無礼の返辞を聞き、お怒りになるどころか、いよいよ和卿に御傾倒なされた御様子で、奥州征伐の時に著け給ひし所の甲冑、ならびに鞍馬三疋金銀など、おびただしくお贈りになられ、けれども和卿は一向にありがたがらず、甲冑は熔かして伽藍造営の釘と為し、その他のものは、領納する能はず、と申して悉く御返却に及んだとか、これほど驕慢の陳和卿も寄る年波には勝てず、鋳造の腕もおとろへ、またことさらに孤高を衒ひ、ときどき突飛な振舞ひをして凡庸の人間に非ざる所以を誇示したがる傾きもあり、またそのやうな人にありがちな嫉妬の情にも富んでゐた様子で、次第に周囲の者から疎んぜられ、つひには東大寺から追放されて失意の流浪生活にはひり、建保四年六月、まるで乞食のやうな姿で鎌倉へあらはれ、往年の気概はどこへやら、あの罪業深重とやらの故右大将家の御実子を御仏の再誕と称してその御温顔をひとめ拝したいと歎願に及んだとか、私どもには、名人気取りの職人が、威勢のいい時には客の註文も鼻であしらひ、それもまた商策の狡猾な一手段で、故右大将家のやうにいよいよ傾倒なさるお方もあり、註文がぱつたり無くなると、もともと身振りだけの潔癖ゆゑ、たちまち愚痴つぽくなつて客に泣きつくといふ事はままある例でございますし、その時の陳和卿の言行も、すべて見え透いた卑屈な商策としか思はれませんでしたけれども、将軍家にとつては、何せ、御仏の再誕といふ一事のために、おのづから、かの厩戸の皇子さまの御事などもお思ひ合せになられるらしく、どこやら気になる御様子で、十五日に御ところへお召しになりましたが、陳和卿もなかなかのお人で、将軍家のお顔をひとめ仰ぎ見て、大声挙げて泣いておしまひになりました...   この和卿といふお方は、その当時こそひどく落ちぶれて居られたやうでございましたが、以前はなかなか有名な唐人だつたさうで、人の話に依りますと、その建保四年から数へて約二十年むかし、建久六年三月、故右大将家再度の御上洛の折、東大寺の大仏殿に御参りになつて、たまたま宋朝の来客、陳和卿の噂をお聞きになり、その陳和卿が総指揮をして鋳造したといふ盧舎那仏の修飾のさまを拝するに、まことに噂にたがはぬ天晴れの名工、ただの人間ではない、と御感なされて、重源上人をお使として、和卿をお招きになりましたところが、和卿は失礼にも、将軍多く人命を断ち、罪業深重なり、謁に及ばざる由、御返答申し上げ、故右大将家はお使の上人からその無礼の返辞を聞き、お怒りになるどころか、いよいよ和卿に御傾倒なされた御様子で、奥州征伐の時に著け給ひし所の甲冑、ならびに鞍馬三疋金銀など、おびただしくお贈りになられ、けれども和卿は一向にありがたがらず、甲冑は熔かして伽藍造営の釘と為し、その他のものは、領納する能はず、と申して悉く御返却に及んだとか、これほど驕慢の陳和卿も寄る年波には勝てず、鋳造の腕もおとろへ、またことさらに孤高を衒ひ、ときどき突飛な振舞ひをして凡庸の人間に非ざる所以を誇示したがる傾きもあり、またそのやうな人にありがちな嫉妬の情にも富んでゐた様子で、次第に周囲の者から疎んぜられ、つひには東大寺から追放されて失意の流浪生活にはひり、建保四年六月、まるで乞食のやうな姿で鎌倉へあらはれ、往年の気概はどこへやら、あの罪業深重とやらの故右大将家の御実子を御仏の再誕と称してその御温顔をひとめ拝したいと歎願に及んだとか、私どもには、名人気取りの職人が、威勢のいい時には客の註文も鼻であしらひ、それもまた商策の狡猾な一手段で、故右大将家のやうにいよいよ傾倒なさるお方もあり、註文がぱつたり無くなると、もともと身振りだけの潔癖ゆゑ、たちまち愚痴つぽくなつて客に泣きつくといふ事はままある例でございますし、その時の陳和卿の言行も、すべて見え透いた卑屈な商策としか思はれませんでしたけれども、将軍家にとつては、何せ、御仏の再誕といふ一事のために、おのづから、かの厩戸の皇子さまの御事などもお思ひ合せになられるらしく、どこやら気になる御様子で、十五日に御ところへお召しになりましたが、陳和卿もなかなかのお人で、将軍家のお顔をひとめ仰ぎ見て、大声挙げて泣いておしまひになりましたの読み方
太宰治 「右大臣実朝」

...建保三年十一月の末...   建保三年十一月の末の読み方
太宰治 「右大臣実朝」

...さうして、そのとしも、また翌年の建保六年も、将軍家の御驕奢はつのるばかり、和歌管絃の御宴は以前よりさらに頻繁になつたくらゐで、夜を徹しての御遊宴もめづらしくは無く、またその頃から鶴岳宮の行事やもろもろの御仏事に当つてさへ、ほとんど御謙虚の敬神崇仏の念をお忘れになつていらつしやるのではないかと疑はれるほど、その御儀式の外観のみをいたづらに華美に装ひ、結構を尽して盛大に取行はせられ、尼御台さまも、相州さまも入道さまも、いまは何事もおつしやらず、ことに尼御台さまに於いては、世上往々その専横を伝へられながらこの将軍家に対してだけはあまりそのやうな御形跡も見受けられず、まさかあの不埒な禅師さまの言ふやうに、将軍家をお生れになつた時からの白痴と思召されてゐたわけでもございますまいに、前将軍家左金吾禅室さまの御時やら、当将軍家御襲職の前後には、なかなか御活躍なさつたものでございましたさうで、また当将軍家があの恐しい不慮の御遭難に依つておなくなりになられたのち、ふたたび急にあらはに御政務にお口出しなさるやうになつて、尼将軍などと言はれるやうになつたのも、実にその頃からの事のやうでございますが、けれども、この将軍家の頃には、前にもちよつと申し上げましたやうにひたすら左金吾禅室さまの御遺児をお守りして優しい御祖母さまになり切つて居られたやうにさへ見受けられ、当将軍家御成人の後には御政務へ直接お口出しなさつた事などほとんど無く、この建保五、六年の将軍家の御奢侈をさへ厳しくおいさめ申したといふ噂を聞かず、かへつてその華美を尽した絢爛の御法要などに御台所さまと御一緒にお見えになつて、御機嫌も、うるはしい御模様に拝され、それは決して当将軍家の事を白痴だなどと申してあきらめていらつしやる故ではなく、心から御信頼あそばしていらつしやるからこそ、このやうな淡泊の御態度をお示しになる事も出来るのであらうと、私たちと致しましては、なんとしても、そのやうにしか思はれなかつたのでございました...   さうして、そのとしも、また翌年の建保六年も、将軍家の御驕奢はつのるばかり、和歌管絃の御宴は以前よりさらに頻繁になつたくらゐで、夜を徹しての御遊宴もめづらしくは無く、またその頃から鶴岳宮の行事やもろもろの御仏事に当つてさへ、ほとんど御謙虚の敬神崇仏の念をお忘れになつていらつしやるのではないかと疑はれるほど、その御儀式の外観のみをいたづらに華美に装ひ、結構を尽して盛大に取行はせられ、尼御台さまも、相州さまも入道さまも、いまは何事もおつしやらず、ことに尼御台さまに於いては、世上往々その専横を伝へられながらこの将軍家に対してだけはあまりそのやうな御形跡も見受けられず、まさかあの不埒な禅師さまの言ふやうに、将軍家をお生れになつた時からの白痴と思召されてゐたわけでもございますまいに、前将軍家左金吾禅室さまの御時やら、当将軍家御襲職の前後には、なかなか御活躍なさつたものでございましたさうで、また当将軍家があの恐しい不慮の御遭難に依つておなくなりになられたのち、ふたたび急にあらはに御政務にお口出しなさるやうになつて、尼将軍などと言はれるやうになつたのも、実にその頃からの事のやうでございますが、けれども、この将軍家の頃には、前にもちよつと申し上げましたやうにひたすら左金吾禅室さまの御遺児をお守りして優しい御祖母さまになり切つて居られたやうにさへ見受けられ、当将軍家御成人の後には御政務へ直接お口出しなさつた事などほとんど無く、この建保五、六年の将軍家の御奢侈をさへ厳しくおいさめ申したといふ噂を聞かず、かへつてその華美を尽した絢爛の御法要などに御台所さまと御一緒にお見えになつて、御機嫌も、うるはしい御模様に拝され、それは決して当将軍家の事を白痴だなどと申してあきらめていらつしやる故ではなく、心から御信頼あそばしていらつしやるからこそ、このやうな淡泊の御態度をお示しになる事も出来るのであらうと、私たちと致しましては、なんとしても、そのやうにしか思はれなかつたのでございましたの読み方
太宰治 「右大臣実朝」

...建保六年の三月には...   建保六年の三月にはの読み方
太宰治 「右大臣実朝」

...亦惟天丕建保乂有殷...   亦惟天丕建保乂有殷の読み方
内藤湖南 「支那歴史的思想の起源」

...建保四年閏(うるう)六月二十日に七十二の年で禅林寺のほとりに往生を遂げられた...   建保四年閏六月二十日に七十二の年で禅林寺のほとりに往生を遂げられたの読み方
中里介山 「法然行伝」

...順徳院の建保年間...   順徳院の建保年間の読み方
中里介山 「法然行伝」

...建保四年九月廿日の條實朝大江廣元の諫言に答へて源氏正統縮此時畢...   建保四年九月廿日の條實朝大江廣元の諫言に答へて源氏正統縮此時畢の読み方
原勝郎 「吾妻鏡の性質及其史料としての價値」

...封建保守の傾きのつよい当時の日本の作家の雰囲気の中には...   封建保守の傾きのつよい当時の日本の作家の雰囲気の中にはの読み方
宮本百合子 「ある回想から」

...年代順に列記すれば、建保七年、弘安二年、正安四年(乾元元年)、元亨元年、元徳二年、文明五年、慶長五年の諸鈔本である...   年代順に列記すれば、建保七年、弘安二年、正安四年、元亨元年、元徳二年、文明五年、慶長五年の諸鈔本であるの読み方
森鴎外 「伊沢蘭軒」

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