...廿八日、乙巳、相模国相漠河の橋数ヶ間朽ち損ず、修理を加へらる可きの由、義村之を申す、相州、広元朝臣、善信の如き群議有り、去る建久九年、重成法師之を新造して供養を遂ぐるの日、結縁の為に、故将軍家渡御、還路に及びて御落馬有り、幾程を経ずして薨じ給ひ畢んぬ、重成法師又殃に逢ふ、旁吉事に非ず、今更強ち再興有らずと雖も、何事の有らんやの趣、一同するの旨、御前に申すの処、仰せて云ふ、故将軍の薨去は、武家の権柄を執ること二十年、官位を極めしめ給ふ後の御事なり、重成法師は、己の不義に依りて、天譴を蒙るか、全く橋建立の過に非ず、此上は一切不吉と称す可からず、彼橋有ること、二所御参詣の要路として、民庶往反の煩無し、其利一に非ず、顛倒せざる以前に、早く修復を加ふ可きの旨、仰出さると云々...
太宰治 「右大臣実朝」
...それが例の建久九年の十二月...
太宰治 「右大臣実朝」
...建久(けんきゅう)九年十二月...
田中貢太郎 「頼朝の最後」
...建久九年正月七日別時念仏(べちじねんぶつ)の間には特に様々の異相奇瑞が現われたということが...
中里介山 「法然行伝」
...法皇が崩御遊ばされた後御菩提の為めに建久三年秋の頃...
中里介山 「法然行伝」
...建久八年(六十五歳)の時法然が少しく病気に罹(かか)った...
中里介山 「法然行伝」
...時は建久三年十一月十五日であったが...
中里介山 「法然行伝」
...二十八武蔵国の御家人、津戸三郎為守(つのとのさぶろうためもり)は、生年十八歳の時、治承四年八月に頼朝石橋山の合戦の時、武蔵の国から走(は)せまいり、安房(あわ)の国へも従い、その後所々の合戦に名を挙げたが、建久六年二月、東大寺供養の為に頼朝が上洛の時、為守は、三十三歳でお伴をして行ったが、三月四日に京都に着き、その月の二十一日に法然の庵堂へ参って、合戦度々の罪を懺悔(さんげ)し、念仏往生の道を聴いてから法然の信者となり、本国に下ってからも念仏の行、怠りなかったが、或人が、「熊谷入道や、津戸三郎は無学無智の坂東の荒武者で、他の学問や修行を教えたって仕方がないと見たから、そこで法然様が念仏ばかりでいいと仰言(おっしゃ)ったのだ...
中里介山 「法然行伝」
...建久三年の頃叡山の根本中堂の安居(あんご)の結願に...
中里介山 「法然行伝」
...建久六年六月六日東大寺に於て往生した...
中里介山 「法然行伝」
...実に建久元年なり...
牧野富太郎 「植物一日一題」
...建久四癸丑(みずのとうし)年に十九なら安元元乙未(きのとひつじ)年すなわち未歳生まれで寅歳でない...
南方熊楠 「十二支考」
...この暦は建久年間(西暦一一九〇―一一九八)のものだったが...
武者金吉 「地震なまず」
...左沢氏は毛利の一族で建久年中にこの地に封ぜられた家というから...
柳田國男 「地名の研究」
...降(くだ)って『続左丞抄(ぞくさじょうしょう)』に採録した建久六年の若狭の国富保(くにとみのほ)の文書などには...
柳田國男 「地名の研究」
...ところが、建久の年、熊谷直実(くまがいなおざね)と久下直光(くげなおみつ)とが、領地ざかいの争いで、対決したさい、裁判の不当に怒ッた直実が吠え猛って、吟味の東ノ廂(ひさし)を震駭(しんがい)させた...
吉川英治 「私本太平記」
...建久元年に行われた源頼朝の大仏供養を模(も)している...
吉川英治 「私本太平記」
...世は木枯(こがら)しのふきすさぶ建久(けんきゅう)七年の真冬になっていた...
吉川英治 「親鸞」
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